詰まった!!
僕の窮屈な頭蓋骨の中身。
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期末試験、模範解答集。
学年末試験というのは、えてして自由に書けというのが非常に多い。
それを公開していこう。先生の評価も書きます。

現代文:四
中学時代は、何も考えずに遊んでた時期。あまり得るものは無かったと思う。高校になってから、自分の思想をはっきりさせようとして、言うまでもなく将来についても考えるようになった。ある日突然、人生一回限りだしどこまでもハイリスクハイリターンな人生を送りたいと考え、どうせなら楽しんでできるようなこととして作曲家を目指す。それと平行して、知の探求をやめないこと、思考の停止に陥らないように気を付けると決心した。

評価:10点/10点
本間先生に師事?

感想:
半分ネタで書いたようなものだが、嘘はついてない。


現代文:五
日本の学校制度は―麻布ももちろんそうだが―文系と理系に分かれていて、生徒がこういうことを言うことが多い。すなわち「文系(理系)だから、そのようなことは知らない」と。これは非常によくないことだと思う。文系理系に関わらず、知らないことがあるのは、本人がそれを知ろうとしない(もしくは知る能力がない)だけであって、進路の問題ではない。最終的に知の統合を図るはずの人類が、このような思考の停止に陥ってしまうのは危険な状態である。

評価:10点/10点
その通りだ

感想:
後輩に向けて何か言いたいこと、みたいな問題でもあったから、これは書かずにはいられない。


物理b:余白
~量子論に至るまで~
昔々、光は粒子なのか、波なのか、という論争がありました。
粒子だという人は、光の屈折を根拠としていましたが、波でもそれは説明できます。
さらに回折という現象まで確認されて、粒子説は壊滅状態に。
しかし、それも、なんとか説明できます。
(図省略)
それも一時しのぎで、干渉という現象で、粒子説は消え去りました。
しかし、波動説にも困ったことがあります。波は媒体を必要とするのに、何もないはずの真空すら光は伝わるのです。そこで、エーテルという媒体を想定し、収めることができました。
マイケルソンとモーリーがこのエーテルの存在証明のために実験をしました。
・・・(中略)・・・
ヤングがこの状態を不思議に思って実験をします。
・・・(中略)
どちらを通ったか不可知の時のみ干渉する→ここで平行世界を考えれば納得!
→この世界は確率である。

評価:0点/0点

感想:
何も書いてくれないとはとことんつまんない教師ですね。まあ、出席が甘かったからいい先生だ。


英語総合:時間が余ったり、試験に疲れた(飽きた)ときに、自由に書いてください。
ダロウは決定論をあたかも真実のように言っていたが、不確定性原理が確立された今となっては、決定論など通用しない。
(不確定性原理)→波の位相と位置は同時に決定できない。
→この宇宙はどうなってるか確定不可
→未来はわからない。
だけど死刑の否定には大賛成
死刑のメリットと言われる犯罪の抑制は、統計上意味がない。
(そもそも重大犯罪者は死を恐れないことも多い)
被害者感情とも言われるが、法治国家に感情を入れるのがそもそもおかしいし、僕だったらその人が死の世界に逃げこむことを許したくない。あと、冤罪の可能性は当然。

評価:10点/0点


感想:
実はここで10点とっていないと学年で赤点である、という危機。
先生ありがとう。
ちなみに、この文章はとてもいいたかったことなので結構満足。

リーディング:4 君が麻布学園で学んだこと(学問、人生上のことなど、どんなことでも良い)を英語、あるいは日本語で述べなさい。
学ぶという事は、将来人類が自然全体を解明することを助けること。
もしくは、自分が自然全体を解明するための一歩だということ。
物事を知るためには思考の停止に陥らないこと。
だが、いかに効率良く学んだとしても人生はあまりに短すぎるし、今まで何千年もかけて人類が考えたことを全て得るのは不可能である。
学校で学んだ最大の事は、昔の先人達の何を学べば良いか、ということ、
学ぶとはどういう事か、ということである。

評価:計算上は、26点/14点!?
(最後の二行に赤線)

感想:何故か点数が暴発。そんなにいらないのに。


倫理:②フリードリヒ・ニーチェの哲学について述べよ。
ニーチェの哲学がとのようなものであるか、ニーチェ自身の本である、「ツァラトゥストラはこう語った」を見て検証したいと思う。
この本は印象的な開始をするが、古代哲学に反抗しているのは明らかである。プラトン「国家」に哲学をするためにソクラテスが上に上っていく場面があるが、ツァラトゥストラは、ためすぎた知恵を教えるために下に降りていく。また、その後に、更に明らかになるが、聖書を否定しているのを読みとることができる。そして、ツァラトゥストラが下へ(町へ)降りていく途中、老人が古代哲学者のように、俗世間と哲学者を関わらせないように注意するが、ツァラトゥストラは無視し、「神は死んだ」という有名な言葉を残して、町へ行ってしまう。
だがツァラトゥストラの言うことは、町の人たちには全く受け入れられない。その後語ったことは、人間は超人にならなければいけないこと、精神は忍耐強い駱駝になり、「汝なすべし」と鱗の全てにかかれた龍に対し「われ欲す」と言う獅子の精神になり、最終的に無垢な幼児となる、などである。この事は、人間の意志が自然を克服し、創造性を身に付けると解釈できるのだが、最終的に幼児になるというのは、社会的常識の全く無い存在であって、正義や知恵や会いを捨ててまで創造性が必要なのか、という疑問が残る。
ツァラトゥストラの思想はニーチェの思想であるのだが、ニーチェ自身が、一般大衆に受け入れられない事を自覚しているし、わざわざ幼児という過剰な表現を使っていることはなんらかの意図があると思われる。幼児というのは保護者が必要な存在であり、放っておくと危険である。このことを考えると、哲学者は自由な創造性を必要とするが、実際に行動されると非常に危険であることを示しているように思われる。人間は自然を克服できる強大な力を持つものであるからその力は抑えなければならぬというのがニーチェ哲学だ。
参考:ニーチェ「ツァラトゥストラはこう語った」

評価:100点/100点
私の手には負えない解釈なので・・・→A100
もしや「ネタ」?
(最後の一段落を指して)もっと詳細に!
(最後の段落、放っておくと危険である。の「危険である」を指し)勝手に死ぬという意味では無害だが・・・・。

感想:
これは急にひらめいた解釈なので穴だらけ、ということは十分に考えられる。
でも、ニーチェがあきらかに自分の思想を受け入れられないようにしているのは読み取れるので、そこをどう取るか、である。
100点ありがとう。
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