詰まった!!
僕の窮屈な頭蓋骨の中身。
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自然
人間の手と足はこんなに小さいのに、これほどまでに行動することができるのか、と思う。

東京の町並みをみて、高層ビル群をみて、服も纏わなかったヒトなる動物が協力したとはいえ、ここまでたどり着いたのか、と。

人間も動物だから、人間が作ったものは自然が作ったものであるはずなのに、ここまで自然とかけはなれることができるのか。

白蟻の巣を見れば、たしかに自然にも見えるが、しかし、そこには不自然さもある。

自然は、不自然なものも作ることができるのだ。

そのとき、自然を超えて、意識なるものが生まれるのではないかと思う。

せっかく僕は意識を抱いたのだから、行動したいものだ。
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録音
ピアノを弾くときに一番難しいことは、なんといっても自分の音を聞くことだ。これはゆずれない。

さて、聞こうとしても、どんなに意識を集中させようと、どんなに客観的になろうとしても、無理である。もちろん、これが出来る人もいるのだろうが、ぼくはそこまでプロフェッショナルではない。

そこで、方法としては、録音がある。リアルタイムで聞けないという点を除けば(これが決定的ではあるが)聞くことはできる。

自分の声を聞いたときのように、全く違う音の世界が広がっていることはもちろんである。

リズムの微細な揺れ、迷いや焦りなど、明確に聞くことができる。
かと思えば、実践しても出来てないんだろうなあと思っていたことが、実はできていたりする。

全く違う世界が本当に広がるのが面白い。

なんとか自分の音をリアルタイムで聞く技術を身につけたいものだ。
mixi連携
あまりにもmixiが廃れたので、詰まった!を復活させたわけだが、連絡ツールとして、mixiはやはり便利だ。というわけで、連携してみるが、mixi独自の日記が書けないというのも少々さびしい。

まあ、どちらにしろ、テスト。
暗闇
暗闇って、なんて心地よくてなんて豊かな世界なんだろう。
無限の広がりを感じ、ある空間に永遠の自由を保障されたような場所。
心地よい風と、音だけが、能動的に僕を幸福にする。

ただ、視覚を失っただけで、これほどまでに幸福になれるのだったら、無音はさらに心地よいのだろうか。

暗闇の幸福、無音の幸福、五感を失うことへの憧れ、死への欲求。

・・・・何もないとは、これほどまでに幸福なのか・・・。

思えば、私達は情報にやっきになり、幸福からできるだけ身を遠ざけようと頑張っている・・・愚からしい。

僕は、そんな束縛から逃れ、無を望みたい・・・。

しかし、無には無を感じる体が必要だ。

何もないだけでは、何もないのだから、仕方ない。

何もないだけでは、何もないのだから、仕方ない。

何もないのは、何かがあるという対照によって成り立つのか・・・。

幸福への追及・・・時間の落差。
プライドは傷となり山へ
このたびは貴重なご意見ありがとうございます。


いやです。


某ブログへの愛情をこめて。

       詰まった!!
緊張(あがり)
今日は副科ピアノの試験だった。

弾いた曲は、Chopinのop.23、すなわち「Ballade」1番だ。

この曲は、僕にとっては思い出の曲であり、いままでの僕のピアノを支えてきたような曲だ。

出会いは、小学5年生の春、全音の、ショパンピアノアルバムの本を、何か初見で弾いてみるか、と、偶然あけたページがこの曲で、この大曲を、1時間くらいかけただろうか、全部読み切った。

途中にでてくる枝分かれする音符をみて、二つ頭のある土筆でもみたような気がして喜んでいたことを、今でも鮮明に覚えている。

弾いてみたい、と思い、8ヶ月後の発表会にむけて、ひたすら練習を続けた。

8人のピアニストのCDを聞き、戦場のピアニストで見たりもして、とにかく8ヶ月、この曲に没頭した。小学5年生だから、届く音程も狭く、オクターブは白鍵でぎりぎり、黒鍵は届かないという状況だったから、省略して練習していたが、いつからか届くようになっていたような気がする。

発表会では、自分でも見事と思えるほどの演奏で(動画が残っているはずであるが、見当たらない)、今は亡き祖父にグランドピアノをご褒美として貰った。

それから、僕はこのグランドピアノが届くまでバラードを弾きつづけ、このグランドピアノで弾くことを楽しみにするつもりだった。

しかし、練習は途切れ、結局、このピアノでバラードは弾けなかった。

中学受験のさい、バラードを教えて下さった先生から別の先生に代わり、中学に入ると、音楽大学に入るわけでではないから、ピアノを楽しんで続けていこうということになった。

中学3年、軽い鬱で、ピアノを辞めることを考えたが、間一髪、辞めずにすんだ。
しかし、学校での成績は最悪、大学を考えると、暗闇しかなかった。

忘れもしない高校1年の1月5日、僕は人生を捨てる決心がつく。
勉強はできないし、何ひとつとして特技を持たない僕が、それまでの人生を支えてきたピアノに託するのも悪くはない。
しかし、音楽大学に入らないつもりで習ってきた僕はピアノ科に入ることはおそらく出来ない。親は国立以外は駄目という。

趣味であった作曲で入ることにして、高校2年の6月に、作曲を習いはじめる。
作曲の先生には、和声もできず、ピアノも弾けず、勉強もだめで、どうしようもないように見えたに違いない。

それでも、僕はフーガがとにかく好きという意地で受験に臨んだかもしれない。

大学に入って、ピアノの先生には、開口一番、
あなたはピアノを習ってこなかったのね?それでは弾いてることにならない。

友達には、下手過ぎる、乱暴、うるさい、本気で弾いてよ、と言われ続け、それでも、基礎から先生に習い続けた。
音色のことは、現代音楽ソルフェージュの先生が驚愕するほど指導してくださって、ピアノの可能性が広がり、一番衝撃的だったのは、
大学二年の秋に聞いたマウリツィオ・ポリーニのピアノリサイタルだった。
この演奏が衝撃的すぎて、2日間は他のピアノを聞けず、この時にアンコールで聞いたショパンのバラード1番が、僕の精神の全てを奪い取ってしまったようだった。

放心状態から立ち直るのに1週間かかり、ピアノをなんとかして弾きたい、本当の意味で、ピアノの音色を自分の指から出したい、と思った。ベートーベンのピアノソナタ7番を習っていたが、試験で大失敗。

こうして、大学生活も半分終わり、選んだ曲が、ショパンのバラード1番。
この難曲をなんとしても弾きたかった。

先生の丁寧なレッスンを受け、音色を鍛え、臨んだ試験。


暗譜が飛んだ。


どうしようもない演奏になってしまった。

ショックだった。小学生のときに弾いた栄光が、自分の音色に若干ついてきた自信が、ピアノに対するようやくついてきた自分との関係が、
また崩れてしまった。

僕は、立ち直らねばならない。このショパンのバラードを、なんとか完成させなければ。
小学5年生のときに出会ったこの曲を、10年経って、まだ縋(すが)ることすら出来ない。

直す面は、人前の緊張と、ピアノの技術そのものだ。

僕は一人相手にすら、緊張してしまう。緊張してもいい、その時に、しっかり、いつも以上に綺麗に弾けるようになればいいんだ。

経験をとにかく積みつづけ、いずれ弾かなければならない曲だ。このバラードという曲は、人生の節目としてもよいほどの曲だ。

未だに僕を魅了し続け、立ちはだかり続ける曲なのだ。

そういう曲に会えたことは幸せで、さらにピアノを続けていきたいと思う。
古典
ベートーベンピアノソナタ31番を趣味で練習始めた。

うむ、とてつもなく難しい。

ペダリングが感傷的になってしまったり、旋律が長くなりすぎたり短くなりすぎたり。

ピアノの先生に言われ、極力アーティキュレーションには気をつけているが、それでも、指使いの工夫や、ペダリングの工夫が足りないことが多い。

アーティキュレーションの点では、2楽章が恐ろしく難しい。
右手と左手のアーティキュレーションの違いや、急激な変化、細かいスラーとかテヌートスタッカートとか、それだけでも大変なアーティキュレーションが次から次へと出てきて、嵐が過ぎ去るような緊張感を持って全て表現しなければならない。
それも、和音が多く、旋律線と和声のバランス、バスの運動性や力性など、気をつけるところは枚挙に暇がない。

3楽章のアーティキュレーションも恐ろしく難しいが、何より難しいのは対位法的に、旋律的に歌うことだと思う。
全ての音が同等の価値を持っていて、全ての音に注意を払い、その音単独の音色と隣の音との関係性、主題の位置など、気を付けることが多すぎる。

こんな難曲に挑みたくなるのは、やはり、この曲が大好きだからで、ベートーベンらしい起伏や緊張など、古典曲らしくあり、らしくなくもあり、バランスのとり方も素晴らしいと思う。

コーダの右手と左手の開離は、信じられないような劇的な効果を出すし、和音などの配置の聞きなれない形ですら、いとおしく、また、身もよじれるような苦しみや、喜びが詰まっているようである。

最近は古典派の曲を弾くのが楽しい。

細かい音の音色の操作が必要であり、やりやすいから。

ただ、途轍もなく難しい。ただ弾いているだけではまったくおもしろくもなく音楽にすらならない。

だからこそ挑みがいがあるというものだ。
夢が現実をより生々しくする
どのような夢を見たか、その具体的な内容はその内容自身によりここに書くことはできない。

ただ、日頃の恐れ、苦しみ、葛藤がおもしろいほど、本当におもしろいように具現化され、僕の想像と現実、道徳と願望が戦いあって、結局自分の思い通りにはいかないということを目の前に生々しく提示された。

何のために夢を見るのか?
という疑問はナンセンスかもしれないが、
今回に限っては、それがわかるような気がしてくるのである。

将来の夢と、睡眠の夢は、何故か日本語でも英語でも同じ単語で表される。

不思議なことに、どちらも自分の願望が提示される。

そして、どちらも打ち砕かれるかもしれないし、どちらも叶うかもしれない。

ただ、夢の中で願望が叶ってもどうにもならないかもしれないが、人生のなかの願望が叶うことが、どうにかなるものなのか、と考えたとき、

やはり自分がこの身体で勝負している以上、人生ははかない、夢ははかないなどという前に、最大の努力はしなければいけないと感じる。

もっとも、その最大の努力を粉砕する夢だったのだが。
旅の恥はかき捨て
ちょっとフランスにでも行ってこようかと思います。

いや、冗談ではないんです。

それも観光目的でも誰かと会いにいくわけでもなく、

ただ、自分探しというか、社会を広げるというか、

自分の捕らわれている生活や環境や財産や名誉から、

一時的にでも抜け出すために。

命があれば、なんでもできる。

どこまで堕ちようとも復帰できると思う。

その能力を持ち合わせている自信はある。

だったら、時間という拳銃にただ撃たれるのを待つだけではだめだ。

僕という人間の特殊性や能力が、

あらゆる枠組みのなかで、どこまで通用するかを試したい。

打ちのめされようが、無視されようが、

命のある限り復帰できる。

というわけで、予定は11月か12月。
食事会
今日は榑松先生の自宅でパーティに参加していました。

僕の自宅からはめちゃくちゃ遠いので、大変でしたが、素晴らしい会でした。

昼から夜まで、食事をしながら飲みつづけ、という経験は僕はあまりしたことが無かったのですが、昼から、静かな雨と涼しい風を感じながら、美味しい料理を食べ、良いお酒を飲むというのは、格別というか、人生最高の娯楽のように感じられます。

また、その料理の美味しいことといったら、抜群というか桁外れで、間違いなく人生でトップ3には入るであろうものでした。

美味しさというものは、味覚だけで決まるものではありません。

舌触り、歯ごたえ、見た目、香り、組み合わせ、それからその場の雰囲気や身体にあたる風、人の手、声、話題、など、全ての総合的感覚を必要とするのです。

食事は5感全てを必要とする、いや、もっともっと大きな感覚が必要とします。
それらが全て揃って、美味しいと、心から感動できます。

今日は、まさにその全てが揃ったような食事でした。

自然にこぼれる笑みが、この世でもっとも幸福であることを感じさせるような印として、僕の全てが包まれていました。

もちろん、主役は味であり、この素晴らしさは想像を絶するもので、当初の期待をはるかに超え、信じられないような心持ちで食べていました。

嫌いなものもありましたが、そういうレベルではないのです。

いくら嫌いなものでも、いくらでも食べられるし、笑ってしまうほど美味しいのです。
もちろん好きなものがどれほど美味しいかといえば、それはもう。


という幸せな経験をして帰ったのでした。

実際に得たり実益なんてものはあまりありませんが、そういう経験ができた、それだけで今日の価値とか役目とかは十分にはたし、心が豊かになって、また頑張ろうという気にさせる、そういう食事でした。

感謝の念が尽きません。
身近な自然を見て
鉛筆を落として、その落ちるという挙動がおもしろくて、謎で、何度も落として遊んだことはあるだろうか。

ニュートンが林檎の落下を見て重力を発見するまでもなく、重力ははっきり感じられて、不思議なものである(といっても、現代に生きていて、そのことを知っているからこそそう思うのかもしれないが)。

重力は地球を形作るのはもちろんだが、人間に、上下という区別を与えた。

これは偉大なことで、重力の向きを下だと人間は把握している。

なぜ偉大かと言えば、からくり屋敷のように、視覚的に下と思わなくても、身体は重力の向きを感じ、本当の下(本当とはなにか?重力のことである)を感じようとするからである。

目をつむり、地球の重力を感じさえすれば、自分がいかに自然に依存しているかが感じられる。

感覚を当たり前のものとして捕らえるのも、生活には必須のことかもしれないが、この地球に生命を預かり、この世界がどういうものであるかを知ろうとしていた時期のように、改めて世界を感じるのも、時にはおもしろいと思う。
ツール
僕が小学生のころは、生活とはゲームであり、勉強もお手伝いも、ゲームのために存在していた。ゲームのない生活なんて考えられなかったし、将来仕事するにしても、ゲームをする時間と生活を両立させるためなんだろうな、などと考えていたものだ。

中高になると、ゲームにはそこまでの興味は抱かなくなる。コンピュータ相手よりは、人と話していたほうが面白いし、対人ゲームや議論が大好きになる。
その流れでこの「詰まった!!」は生まれた。もともと詰将棋のためのブログだったが、途中で大きく進路変更してきた。

大学になると、ソーシャルネットワークや、ツイッターなどといったものに没頭しはじめるが、あきらかなmixiの廃れを見て、これにも興味を得なくなってきた。

インターネット上では深い繋がりは持てず、実際に会うことの喜びには数段及ばない。

そこで、僕は実際の繋がりを重要視するようになった。

現実の人間関係は、当然リアルで生々しく、正解が見えず、大失敗することもあれば、幸福を得ることもできる。

ただ、正解が見えないというのは大きな特徴で、自分の客観視というものが必要でありながら、得ることは容易ではない。

僕が一番悩んでいるのは、まさにそのことであり、自分が他人にどう見られているかは、わからないから臆病になり、わからないから大胆になるのである。

よっぽど深い付き合いでなければ、その本音を共有できることはない。

だから、僕は僕らしく行動したいが、その結果どうなのか?というものの試験がブログですることができると思う。

ネット上で少々気まずくなったって、現実で「おはよう」と一言言えば、それで修復は事足りる。

文章の限界は、人間の現実には到底敵わないものだ。それでも影響は大きいかもしれないが、
インターネット上の言葉というのは、実に不思議な性格を持っていて、もちろん扱いは難しいが、再挑戦したいと思う。

ブログ復活の第一歩である。
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