詰まった!!
僕の窮屈な頭蓋骨の中身。
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夕の素描III
III
      赤い光が射してくれば
せつなくさんらんする幻…… またふっと
だれか彼岸花を捧げていった
……闇の冷えそめる庭々で
水滴はしたたり打ってゐる しとった泥を
声よさびしい声よ
すこしづつ
すこしづつ
ぼくのからだが侵されてゐる


2/4の日記の夕の素描から3つめ。
すばらしい日本語で、読めば読むほど感動してしまい、今、虜になっています。
こんなに綺麗で美しい日本語があったのかと、心から感動したのが、
「せつなくさんらんする幻」というフレーズ。
「赤い光」という描写は、夕焼けのイメージよりはむしろ神聖で無機的なイメージを呼び起こします。
その直後にくる、「せつなくさんらんする幻」という、ひらがなで優しい世界、ぼやけたような世界が一気に広がり、読者を未体験の地平線に連れ去ってしまうようなそんな感覚。
この文の視覚的イメージもすごい。
……の使い方・・・、「赤い光」の配置、ブログでは縦書きで書けないですから、ここから本当の文の形状の美しさは感じとっていただけないのが残念ですが、このはじめの空白と、……が、どうしようもなく幻影的で、夢のような表現です。
そんな遠大で非現実的な幻想・・・そこに、「誰かが彼岸花を捧げていった」という現実的で鮮明な描写。
そして「闇の冷えそめる」と背景の色が一気に暗くなります。もはや時間芸術の領域で、2次元的な時間を高いところから見下ろしているような浮遊間を受けます。
「水滴」「しとった泥」と、さらに世界は小さいほうに拡大され、誰かもわからない声…実際にある声ではないような、「さびしい声」
その後に関しては僕は分析も何もできません。「僕」が誰かもわからない。侵されていると言われてもそれはわからない。
ただ、この詩の美しさ・・・寂しさ・・・そういうものに、僕がその世界に侵食されていくのがわかるようです。

「せつなくさんらんする幻」

この日本語の美しさに出会えたこと・・・
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音楽の記憶
僕が持っている一番古い音楽の記憶・・・、なんだかわからない。どれが一番古いのかわからない。こんな光景。

ピアノの椅子が高い。よじ登れない。アップライトピアノの鍵盤を見ることもできない。でも鍵盤の構造は知っている。手を伸ばせばぎりぎり届くし音を鳴らすことはできる。多分黒鍵も。自分で鳴らしたい音を捜し、自由に、自分が思った通りに弾く。曲を弾いていたのかどうかはわからない。でも楽しい。まだ幼稚園にも行ってなかった頃だろう。一日中ピアノで遊んでいた。

五線紙がある。全音楽譜出版社の楽譜を見よう見真似で写したり、加線が好きで、何本も引いていた。メトロノームの最速が208だから208をよく書いていた。数字があれば必ず足し算もする。調号には何か規則があるらしいとは思いながらも、それはわからないので、適当に書く。良い曲が書けると信じていた。
部屋にいて、二段ベッドの下でお母さんがいる。お母さんは椅子に座ってCDをかける。ヘス編曲のバッハカンタータ147番のコラール。「主よ、人の望みの喜びよ」という題名も好きだった。短調になるところがすごく切なくて、身がよじれるような感覚。それからショパン。ノクターン、バラード、ずっと好きだった。

先生について、40分のレッスンのうち、半分は楽譜を書く時間。防音室のなかにグランドピアノがあって、引き出しのような机。弾いたり書いたり。終わったら姉のレッスンを待つ。火燵の中でぬくぬくと。防音室から聞こえるピアノの音でうたた寝。


どれも4歳で幼稚園に入る前の話。ひらがなも知らない頃。頭の中は、ピアノと数字でいっぱい。ピアノは大好き。数字で遊ぶのも大好き。五線紙を前にすれば一流の作曲家になったつもり。将来はピアニストか算数博士になりたいと思っていた。宇宙にも出てみたかった。

自分のことが大好きで、この世界も大好き。外に出て、優しい太陽の光と、涼しい風。地面に顔を付けて、蟻と同じ視線で蟻と遊ぶ。隣の家の庭の花を一つ失敬して蜜を吸う。庭の草をじっと眺める。

家の床の模様に規則を発見しようと必死。床にビー玉を転がしたりする。飽きたら数字かピアノ。ふと思い付いたら五線紙。犬と戯れたりもする。

犬に乗ろうとしても逃げられる。散歩で引き合いになったら良い勝負。

近くの公園で高いところから町を臨む。

隣町の鉄道が見える。近所はほとんど草村。だってまだ新しい町。家も人も少ない町。知っている人は家族と隣と向かいだけ。

こっそり祖父母の部屋に入って、遊んでもらう。麻雀牌を使った簡易な遊び。

床の模様、壁の染み、土、昆虫、草、そういう小さなものが、どこまでも大きく見えて、どんな小さな世界が広がっているんだろうと想像。いくら見てもまだ先の小ささがある。

星を見ればその神秘と不思議さに圧倒される。

夜は祖母の語る物語

もしくはCDで聞くピアノ

布団の中に入って、世界で一番幼い自分。
詩―哲学
詩は・・・とても特殊な芸術です。

まず、その言語をわかっていないと鑑賞すらできないということ・・・まあ、図形詩はまた違ってくるのかもしれませんが、それでも言語というものを使うという大前提があります。

「.」「。」「、」「!」「?」等、いろいろな記号があります。そのそれぞれに記号が持っている雰囲気があり、意味合いがあり、表現があります。それは読者や作者によっても解釈が違うところでもあると思いますが、それでも固有の表現があります。

詩は、また音声とも密接に結びついたものです。

有名な詩を例に挙げると・・・

小諸なる古城のほとり
雲白く遊子悲しむ
緑なすはこべは萌えず
若草も藉くによしなし
・・・

「落梅集」/島崎藤村

ローマ字で発音を記せば、
komoro naru kojo no hotori
とはじまり、明らかに母音のoが多い・・・これはもちろん意図して組まれるべきものですし、意図しなかったとしても、その音による雰囲気というのは抗い難い効果を出すものです。

では、結局詩は音声として聴覚で捕らえるものなのか・・・そうでもないですよね。

たとえば見た感じでもう見るからにコレ、という詩がある。
例えば・・・北園克衛は特徴的な例ですね。手もとに詩が無いので詩は割愛しますが。

そのような視覚的や聴覚的な直接的な効果というもの、文体の効果、文の単語や文法による効果、文の内容、隠喩、・・・等、いろいろな効果があります。潜在的にあるものもあり、それは詩を難しくして、面白くもしています。

詩は、絵画でもなければ音楽でもない。それでも視覚と音声はある。
どのように見せるか、どのように読んで聞かせるか、そのような演奏者のような立場すら存在する・・・、全く複雑な芸術です。

ある言語、もちろん複数でもかまわない言語が作り出す芸術を詩と呼ぶのでしょうか。
しかし、そうでもありません。小説は芸術のひとつですが、詩とも呼べないのです。

詩には、詩情が必要です。詩情とは何でしょうか、

すこし、外れた考えをしてみます。

「花が咲いている」

「花は咲いている」

どちらの詩情がより深いでしょうか。
深さは変わりが無いかもしれません・・・しかし、詩における背景は全く異なります。

「花が咲いている」これはただの事実です。その先を何も作者は指定していません。ここで読者は感じ取らなければいけないことがあります。この風景をまず想像し、それがどのような意味を持っているか、ということです。
事実のみから、意味を推測するというのは非常に高度なことです。単語がどのようなものか熟知し、さらに文化によって持たされた意味というもの熟知しなければ読み取れないからです。

「花は咲いている」これもただの事実ですが、わかりやすいことが一つ言えます。「花は」、といっている「は」は限定の「は」です。「が」にも限定の意味が全くないわけではありませんが、「は」のほうがより強い限定です。
このときに、ほかの何も咲いていないという無意識の考えが走ります。
さらに、花が咲いているというプラスのイメージをその後否定するかのような印象を受けます。



花は咲いている
私の目は開きもしない
心よ

深い瞑想の中で
花を夢見ることはあるか



というように続くかもしれません。プラスのイメージの否定がネガティブな印象を呼び、それを詩情として読者が感じ取ることになるのです。

どちらの例も詩情というものはある。しかし、それが全く異なってしまう。詩情というのはそれほどまでに繊細で幅広い意味を兼ねているので、とらえどころが無いのです。

しかし、言葉で説明するより先に、詩情は存在します。

詩情をはっきりと定義し、それに基づいて詩を分析する・・・ということは西洋的な考えで、それはそれで悪くないのだと思いますが、そういう見方以外の見方も出来るとするなら、このような考えも無駄ではないのではないかと考えます。


詩を作りたい・・・そういう衝動に駆られることがよくあります。

詩を見られるのは恥ずかしい・・・なんて話がありますが、それは、詩というものに自分の裸の存在が入っているからだと思います。

表現とは、自分の精神の裸を見せるものであり、技法という服を着ていたとしても、究極的には精神としての肉体美というようなものを見せるものだと思うのです。
無理に精神と肉体の二元論にする必要もありませんが。

詩を作りたいという衝動は、自分を見せたいという衝動から来るものであり、顔と違っていくらでも自分の理想を突き詰められること・・・もちろんアイデンティティの範囲内で、かも知れませんが・・・、それが途轍も無く嬉しい追究であり、社会の中で自分を見せるに足る手段だと思うからです。
理解した。
露はなぶだう

についてですが、理解しました。

露な葡萄
のことですね。

そうすると・・・解釈がちょっと変わってきますが・・・・、色彩感覚がより不思議な感じなりました。
夕の素描Ⅱ

露はなぶだう 震へるみどりの冷気をごらん
日光はその核にとぢこめられた
そらが酷しくくろずんでゐる
ぼくらははてしない外端に置かれてゐる
円テーブルにすがるやうに… かなしい鉛錘の一塊のやうに
ぼくらの心は離れて沈む……
傾角のおほきいひとひの光から
ぼくらの顔はなにを受けたか?
樹々を? 投げられてとぶ鳥の影を?……

「夕の素描」より/生野幸吉/中央公論社「現代詩集」


生野幸吉(1924-1991)は小説家、詩人で、ドイツ文学者でもあります。この詩は、「生野幸吉詩集」より。
入沢康夫(1931)によって、「・・・これらの詩の魅力の鍵は、そこで雄弁に語られている事物や観念や感懐が、それら自体が目的なのではなく、かえって、それらがまた一つの手段、一つの媒体のごときものとなって組み合わさり、それらの彼方に、超越的・非時間的な世界を喚起しているという点にある・・・」と評されています。(「現代詩集」より)

というわけで、今日はこの詩について。

僕がわからなかった単語「露(あら)」「なぶだう」「ひとひ」の三つですね。「露(あら)」に関しては、読み方によって意味が「あらわ」というようになるのか、「つゆ」となるのかがわかりません。
「なぶだう」に関しては、読み方も意味もさっぱりわかりません。
辞書は引いてもでてきません。「なぶ」で「並ぶ」とでてきますが、そうすると「だう」についてどう解釈すればいいのかわからず、読みも「dou」か「dau」なのかわかりません。
「ひとひ」は「一日」ですね。

さて、この詩は視覚的に絶妙な効果を発揮しています。
寒くて暗い大気に、一筋の光が差し込んでいる、という情景ですね。
前半の暗くて寒い雰囲気に、7行目にさっと光が射し込み、それでもそれは元からあったということに気づかされ、感動しているように、僕は捕らえられました。
入沢氏の指摘のように、その風景がこの詩の本質なのではなく、その風景の「彼方に超越的な世界を喚起している」ことに自分が引き込まれていきます。

さて、この詩はⅠ~Ⅳまであり、全体的に暗い雰囲気がありますが、暗さが悲しさを想起させるのではなく、いや、直接的には悲しさを想起させているかもしれませんが、本質としては悲しさを表現しているわけではなく、むしろその悲しさを客観的に見ることによる感動を表しているように思われます。


というわけで、いきなりでしたが、詩を読んでみたりしたのでした。
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