詰まった!!
僕の窮屈な頭蓋骨の中身。
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敬虔なもの。
さて、今日は浅草寺まで、初詣に行ってきたわけだが、初詣という言いかたは、よく詣でる人が使って初めて言葉の意味に達するとおもうのだが、どうか。

キリスト教の宣伝もまいどまいどよくやってるなあ、と思うものだが、どういう状況であれ、教えで人を傷つけるような宗教にはついていけないなあ、と思うこともあるわけで。

浅草寺は、みんな賽銭をよく投げているわけだが、慣例的な賽銭や敬虔な賽銭があるのだろうな、と思うところです。

やっぱり、参拝という行為が、慣例的なものであることのほうがよっぽど多いのでしょうね。そこには、神のご利益だとか、そういうものを信じていると自分で思っている人は多いでしょうが、その内訳は果たして。

未だに、お守りを踏んづけるだとか、そういう不敬虔な行為は(法律的にでなく)咎められるような世間なので、国家が完全に宗教から離脱してはいないのだなあ、と思ったりして。

もちろん、宗教から離脱するのが最善だとか、国民は全員敬虔であるべきだ、とか、そういうことはまだまだ詰めないとどっちが善いのか、善いものがあるのか、わからない。

敬虔なものということに関して古代哲学は、プラトンのエウテュプロンにおいて、敬虔なものは存在できない、というソクラテスの巧みな弁論術によって、プラトンは神を信じることに一種の空虚性を感じているっぽい(僕の言うことを信じちゃだめだよ。正確に解釈できてることなんてまずないんだから)ので、やっぱりある特定の人(もしくは全員)から宗教は離脱されるべきだと思うんだよね。
「(もしくは全員)」とは書いたものの、もちろん、そんなのは嘘であって、ある特定の人(言わなくてもわかるよね)が神を信じるのは真理から遠ざかるということを言いたいのだろうけど。

現代に、そんな古代の哲学持ち込んでどうすんだよって言われそうだが、はっきり言って、古代の人の考えていることは、恐ろしく現代的で、未来的で、理知的だ。
そこもとに関しては、プラトンのパイドンを読めば、いかに、古代が現代的であるか、わかるというものだ。アリストパネスの雲でも、超自然的なものを自然で理論付けることはちゃんとやっているし、神を超自然のものととらえ、雷とか、そういうとても不思議なものを自然ととらえることができる古代人はなかなかすごいと思うわけです。

まー、こんなこと書いていても、現代人のうぬぼれだ、とか逆の非難を食らいそうなものなのですよね。

神を信じるか、といわれれば、僕は前に信じるとはっきりと答えた。それは今でも変わっていないのだけれども、信じていることと敬虔なことは違う。
僕は、誰も居ない教会で、必死に神に祈る姿を本人にばれないようにのぞき見たとしても、その人が何をやっているのか、よくわからないだろうし、自分はその人になることができないだろう。
即ち、人に見られていないところで、必死に祈る人が真の敬虔な人であって、特に敬虔な人はそちらのほうを望むだろう。
聖書に、イエスの言葉で誰も居ないところで祈りなさい。人の居るところで祈る人は偽善者である、というような内容の言葉があるのだが、僕はこれが大好きな言葉だ。

本当に敬虔な人は、おそらく社会に故意的な(通俗的な意味での)悪を働かないだろう。すべての人が敬虔であれば、おそらく善い社会になるとは思うものの、ほとんどの人はイエスの言葉を借りれば偽善者となるのだろうね。

その前に、ソクラテスみたいなのがいるとどうにもならんから社会から排除しなければならないのだけどね。

(イエスによる偽善者的な意味で)敬虔でいなさい、とは、社会の中で難少なく生活しなさい、という意味だと思う、というのが、今日の収穫というところで、この文章を閉じようか。

しっかし新年そうそうこういう記事を書いて、ちゃんと読み続けてくれる人はいるのかねえ。
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