詰まった!!
僕の窮屈な頭蓋骨の中身。
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ついに復活!
詰まった!!は本日を持ちまして、
復活させていただきます!

実にほぼ数ヶ月のブランクを経て、この経緯に至ったのは、自分が地に堕ちつつあることを認識しているからであります。

ひとつだけお話をいたしましょう。

自分が地球上のあらゆる動物と同じ動物という区分ができるということがわかったとき、自分のこの文明の海に沈んでいる状態を海の上から見ることができると思います。

そのときに、自分が実はこういう状態にあるということをとても不思議に、そして不自然に感じることがあると思います。

そういう状況になったことが少なくとも僕はあります。他の方にあるかどうかは知りません。

そこにおける自分の位置づけ、これに対して、ものすごい奇跡を感じるというのは、多くの昔の人達、また現在も活動している方達にあることだと思います。

それになんらかの意味を見出す、それが、人生を考える上でのひとつの方法かもしれません。

もしこれが正しいとしましょう。

自分のその奇跡を十分に活かしきれない場合、これは、奇跡への冒涜だと考えます。

一方では慎重であると捕らえることもできます。

たとえ話をします。

あなたは、100mを9秒で走れる素質を持っていたとしましょう。

あなたはこの奇跡、なにに使うことになるでしょう。会社の遅刻に間に合わせるために走ることに使うでしょうか。

爽快な気分を味わうために、時速40km近い速度で走ることを楽しむでしょうか。

大会にでて、優勝し、名声をあげ、世界の頂点に上り詰めるでしょうか。

それとも、この能力を使う意味を見出さず、そのままこの能力が朽ち果てるのを受け入れるのでしょうか。

もしあなたが、最後の選択肢を選ぶのならば、社会一般の人からみて、どうも堕落していると見られるのは仕方がありません。

そして、もったいないことであり、これは社会の利益への損害であるともいえるでしょう。

なぜなら、どれも自分の意志でできることだからです。もっともあまりに束縛された人なら無理かもしれませんが。

では、この100mを9秒で走る素質というのを、この文明社会に生きていく人間としての素質ということにおきかえてみましょう。

お分かりでしょうか。社会一般の人からみて、この能力を使わず、生きていく行為を捨てた場合、これは社会への利益の損害であり、堕落であるということがわかるでしょう。
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コメント
この記事へのコメント
既存の「教科」なり「種目」なりで測れる能力なら、
自他共にその能力に気づくチャンスがあるわけですが、
そうでない能力の場合、それがとても凄いものでも
誰も気づかぬまま、ということがあるのでしょう。

教育とか評価とかを考えるとき、
このあたりがとても重要ですね。
2010/02/12 (金) 12:17:20 | URL | いしはらまこと #-[ 編集]
学校の成績がよい人というのは自分の得意種目が学校の伸ばしたいものと一致しているだけ、という考えもよく浮かびますね。
しかし、何かが抜群であったとしても、総合的に優れていなければ社会では発揮できないとも思います。
その能力と発揮するための能力、両方あって、本当に能力というものが存在するのでしょう。
学校は主に後者の手助けに力を注ぐべきなのかもしれません。
2010/02/15 (月) 20:16:33 | URL | えのき #-[ 編集]
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