詰まった!!
僕の窮屈な頭蓋骨の中身。
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自由は必要か?そもそも自由とは何か?その1
とあるブログに、みんな同じようなこと(今日は勉強をあまりできなかっただの、テストの点数が悪かっただの)を書いていて、もはや不愉快だ、みたいな文章があった。
それに対するコメントに、そういうのを書くのは個人の自由じゃないか、みたいなものが載っていたわけだが、いろいろな事情により、転載はせず、アドレスだけ張っておく。

http://d.hatena.ne.jp/gobrin/

でだ、僕が議論の対象にしたいテーマは二つ、自分を卑下することによる自慢と、自由について、だ。
別に悪い奴が自分のことを嘆いてるだけだったら、自分の部屋でいつまでもやってろ、とそういうことなんだが、妙にできてる奴の癖に、そんな風に自分を卑下しつつ、自慢するのはどうなのか。
これは、(とくに僕と同じ学校の人に)よく自分に当てはめて考えて欲しい。
自分を卑下することによって自慢していることは無いか。
悪さ自慢をしたりするのとか、あきらかに突拍子も無い状態(昨日19時間しか勉強できなかった、これじゃあ勉強不足だーみたいな明らかに常識はずれな冗談)のような場合は別にいいとして、まさに上のブログに書かれているような状態になっているとするならば、改めたほうが良いと思う。
自慢したいなら素直にすること、ただし、それが本当に人が追いつけないようなものであることが条件だと思うが。

しかし、こんなのは、そこらへんのどうでもいい人間の本質をついただけの話であって、深く議論する対象ではない。

問題は自由である。
自由の問題はそこらへんにたくさん転がっている。
個人のブログに35過ぎたら羊水が腐るとか書いて非難を浴びすぎた芸能人や、家の周りをゴミで囲って市役所などからずっと勧告を受け続けているにも関わらずどかない人とか、児童ポルノの単純所持規制、および漫画などの規制とか、歩きタバコだとか、未成年者の深夜の外出だとか・・・、
規制されたほうが良いのに規制されなかったり、規制されるのがおかしいのに規制されたり、と個人が思うものはたくさんある。

日本の憲法では、公共の福祉を侵さない限りの全ての自由を許している。
これは、近代哲学が自由を追い求めて、それに賛同した結果ともいえるのだが、古代哲学では自由を悪とするのがもはや前提とすらなっている。

ひとつ例を挙げよう。
ネット界において、特定の人に不愉快な文章が掲載され、それを不愉快だと文句を言うと、そんなの見なければいいじゃないか、という風に言われる。もはや日常の風景であるが、全て自由が許されるならば、おかしいことが起こる。
まず、不愉快な文章が掲載されるのは、自由である。
不愉快だと文句を言うのも自由である。
見なければいいじゃないか、と言うのも自由である。
もちろん、不愉快な文章を見るのも自由であるが、自ら規制するのも自由である。
このような状態に文句を言うのも言わないのも自由である。
究極的に、喧嘩になっても自由、殴り合いになろうが、殺し合いになろうが自由。
これはおかしい。
少なくとも、喧嘩になる前にどこかに規制をかけないと、国家が崩壊する。
よって自由は全て許されてはいけない、ということが証明される。

その前に自由とは何か、考えて見なければいけない。
言葉の意味そのままに取れば、まあ僕なりにだが、

・自由の第一定理・
「自分の意思を実行(実践)することができる」

ということだと思う。もちろんこの言葉の姿だけを捉えなければならない。責任とか、節制だとか、そういうのはまったく必要としない。
責任を働かせないのも節制をきかせないのも"自由"である。
こう見ると、自由はどこまでも危険な存在だ。
自由を全て認めたら、全人類は欲望のままに走り、税金のゲーム理論の最悪系になる。

ex)税金のゲーム理論
選択肢
自分:①税金を払う②税金を払わない
国民:A税金を払うB税金を払わない
自分に最善は②A、次善は①A、次に②B、最悪が①B
(全員が税金を払わないよりは自分も払って国が安全なほうがマシ(よっぽどいい))
ゲーム理論では、自分は②を取るのが、国民がどっちの選択肢をとっても良い結果になる、が全員これを適用すると①Aよりも非常に悪い状態になってしまう。

よって税金は払わなければならないように規制するのが、すべての国民に利益になる。
これによって次の定理が導き出される。

・自由の第二定理・
「規制されなければならないものが存在する」

最終的にどういう答えに落ち着くかは僕もわからないが、今日はここまで。続くかな?
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コメント
この記事へのコメント
連中が
自由自由と
言うのなら
声帯全部
ぶっつぶしたれ
僕は今はそういう「パンクス」な考え方なわけですが。
第二定理については、この定理そのもの自体は存在しうるが、しかしだからといって、「規制されなければならないもの」を判断するモノ、例えば倫理観1つをとっても、それこそ1つの団体、もしくは1人1人について、全く違うものなのだから、定理の存在自体が揺らぎやすく、不安定なものである。だから難しい。という事だと解釈した。まあ、今更こんな事を確認しなくてもいいかもしれないけれども。
ここからは自論になるけれど、自由には責任が伴うとよく言われるが、その責任の重さについての個々人の意識の低さ、ていうか倫理観の甘さが、ウチの学校は酷過ぎるよ。他の学校は知らんが。
しかしだからといって、自分に都合のいい判断基準だけだと、それは独裁的な基準になってしまうからなあ。
やはりアナーキズムが一番だ。少数派はアナーキズムが一番!
2008/12/18 (木) 23:16:53 | URL | GobRin #-[ 編集]
全人類の共通の正義というのが見出すことが不可能だというところが、一番難しいところだね。
それが発見される=哲学の終焉ということにもなるね。
学校の人達が全員、まともな生活をおくるのが目的なら、優秀な教員達によって作られた校則に絶対服従をすればいいだけであって、自由という校風が何を目指しているのか、結果はどうなるのか、というのはよく考えなければいけないところだと思うね。
アナーキズムは僕は危険なもののようにしか思えないが、深く考えてないからどうなのかよくわからん。
2008/12/19 (金) 00:11:47 | URL | えのき #-[ 編集]
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