詰まった!!
僕の窮屈な頭蓋骨の中身。
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詩―哲学
詩は・・・とても特殊な芸術です。

まず、その言語をわかっていないと鑑賞すらできないということ・・・まあ、図形詩はまた違ってくるのかもしれませんが、それでも言語というものを使うという大前提があります。

「.」「。」「、」「!」「?」等、いろいろな記号があります。そのそれぞれに記号が持っている雰囲気があり、意味合いがあり、表現があります。それは読者や作者によっても解釈が違うところでもあると思いますが、それでも固有の表現があります。

詩は、また音声とも密接に結びついたものです。

有名な詩を例に挙げると・・・

小諸なる古城のほとり
雲白く遊子悲しむ
緑なすはこべは萌えず
若草も藉くによしなし
・・・

「落梅集」/島崎藤村

ローマ字で発音を記せば、
komoro naru kojo no hotori
とはじまり、明らかに母音のoが多い・・・これはもちろん意図して組まれるべきものですし、意図しなかったとしても、その音による雰囲気というのは抗い難い効果を出すものです。

では、結局詩は音声として聴覚で捕らえるものなのか・・・そうでもないですよね。

たとえば見た感じでもう見るからにコレ、という詩がある。
例えば・・・北園克衛は特徴的な例ですね。手もとに詩が無いので詩は割愛しますが。

そのような視覚的や聴覚的な直接的な効果というもの、文体の効果、文の単語や文法による効果、文の内容、隠喩、・・・等、いろいろな効果があります。潜在的にあるものもあり、それは詩を難しくして、面白くもしています。

詩は、絵画でもなければ音楽でもない。それでも視覚と音声はある。
どのように見せるか、どのように読んで聞かせるか、そのような演奏者のような立場すら存在する・・・、全く複雑な芸術です。

ある言語、もちろん複数でもかまわない言語が作り出す芸術を詩と呼ぶのでしょうか。
しかし、そうでもありません。小説は芸術のひとつですが、詩とも呼べないのです。

詩には、詩情が必要です。詩情とは何でしょうか、

すこし、外れた考えをしてみます。

「花が咲いている」

「花は咲いている」

どちらの詩情がより深いでしょうか。
深さは変わりが無いかもしれません・・・しかし、詩における背景は全く異なります。

「花が咲いている」これはただの事実です。その先を何も作者は指定していません。ここで読者は感じ取らなければいけないことがあります。この風景をまず想像し、それがどのような意味を持っているか、ということです。
事実のみから、意味を推測するというのは非常に高度なことです。単語がどのようなものか熟知し、さらに文化によって持たされた意味というもの熟知しなければ読み取れないからです。

「花は咲いている」これもただの事実ですが、わかりやすいことが一つ言えます。「花は」、といっている「は」は限定の「は」です。「が」にも限定の意味が全くないわけではありませんが、「は」のほうがより強い限定です。
このときに、ほかの何も咲いていないという無意識の考えが走ります。
さらに、花が咲いているというプラスのイメージをその後否定するかのような印象を受けます。



花は咲いている
私の目は開きもしない
心よ

深い瞑想の中で
花を夢見ることはあるか



というように続くかもしれません。プラスのイメージの否定がネガティブな印象を呼び、それを詩情として読者が感じ取ることになるのです。

どちらの例も詩情というものはある。しかし、それが全く異なってしまう。詩情というのはそれほどまでに繊細で幅広い意味を兼ねているので、とらえどころが無いのです。

しかし、言葉で説明するより先に、詩情は存在します。

詩情をはっきりと定義し、それに基づいて詩を分析する・・・ということは西洋的な考えで、それはそれで悪くないのだと思いますが、そういう見方以外の見方も出来るとするなら、このような考えも無駄ではないのではないかと考えます。


詩を作りたい・・・そういう衝動に駆られることがよくあります。

詩を見られるのは恥ずかしい・・・なんて話がありますが、それは、詩というものに自分の裸の存在が入っているからだと思います。

表現とは、自分の精神の裸を見せるものであり、技法という服を着ていたとしても、究極的には精神としての肉体美というようなものを見せるものだと思うのです。
無理に精神と肉体の二元論にする必要もありませんが。

詩を作りたいという衝動は、自分を見せたいという衝動から来るものであり、顔と違っていくらでも自分の理想を突き詰められること・・・もちろんアイデンティティの範囲内で、かも知れませんが・・・、それが途轍も無く嬉しい追究であり、社会の中で自分を見せるに足る手段だと思うからです。
理解した。
露はなぶだう

についてですが、理解しました。

露な葡萄
のことですね。

そうすると・・・解釈がちょっと変わってきますが・・・・、色彩感覚がより不思議な感じなりました。
夕の素描Ⅱ

露はなぶだう 震へるみどりの冷気をごらん
日光はその核にとぢこめられた
そらが酷しくくろずんでゐる
ぼくらははてしない外端に置かれてゐる
円テーブルにすがるやうに… かなしい鉛錘の一塊のやうに
ぼくらの心は離れて沈む……
傾角のおほきいひとひの光から
ぼくらの顔はなにを受けたか?
樹々を? 投げられてとぶ鳥の影を?……

「夕の素描」より/生野幸吉/中央公論社「現代詩集」


生野幸吉(1924-1991)は小説家、詩人で、ドイツ文学者でもあります。この詩は、「生野幸吉詩集」より。
入沢康夫(1931)によって、「・・・これらの詩の魅力の鍵は、そこで雄弁に語られている事物や観念や感懐が、それら自体が目的なのではなく、かえって、それらがまた一つの手段、一つの媒体のごときものとなって組み合わさり、それらの彼方に、超越的・非時間的な世界を喚起しているという点にある・・・」と評されています。(「現代詩集」より)

というわけで、今日はこの詩について。

僕がわからなかった単語「露(あら)」「なぶだう」「ひとひ」の三つですね。「露(あら)」に関しては、読み方によって意味が「あらわ」というようになるのか、「つゆ」となるのかがわかりません。
「なぶだう」に関しては、読み方も意味もさっぱりわかりません。
辞書は引いてもでてきません。「なぶ」で「並ぶ」とでてきますが、そうすると「だう」についてどう解釈すればいいのかわからず、読みも「dou」か「dau」なのかわかりません。
「ひとひ」は「一日」ですね。

さて、この詩は視覚的に絶妙な効果を発揮しています。
寒くて暗い大気に、一筋の光が差し込んでいる、という情景ですね。
前半の暗くて寒い雰囲気に、7行目にさっと光が射し込み、それでもそれは元からあったということに気づかされ、感動しているように、僕は捕らえられました。
入沢氏の指摘のように、その風景がこの詩の本質なのではなく、その風景の「彼方に超越的な世界を喚起している」ことに自分が引き込まれていきます。

さて、この詩はⅠ~Ⅳまであり、全体的に暗い雰囲気がありますが、暗さが悲しさを想起させるのではなく、いや、直接的には悲しさを想起させているかもしれませんが、本質としては悲しさを表現しているわけではなく、むしろその悲しさを客観的に見ることによる感動を表しているように思われます。


というわけで、いきなりでしたが、詩を読んでみたりしたのでした。
きっかけ
世界に翼が生えたなら

僕が足となって飛び立つだろう。


世界の目が開いたなら

僕が足となって前に進むだろう。
haveとbe
haveとbeとどっちが基本的な単語なんだろう?っていうのは、実は昔からの疑問です。
教科書に一番はじめに書いてある動詞はbe、でも、活用表ではhaveから書いてある場合もしばしば。

そこで、ちょっと、考えてみました。
僕自身はラテン系言語しか知らないので、しかも、フランス語とイタリア語だけですね、それを参考にしながら考察。
というわけで、beと言う時は、etreかessereで、haveと言う時は、avoirかavereです。

beもhaveも基本的な助動詞として使えます。

beは、
be+過去分詞→受動
be+現在分詞→進行

haveは、
have+過去分詞→過去
have+不定詞→未来

最後に関しては注が必要ですね。
フランス語とイタリア語では単純活用の未来形を、動詞の不定詞+haveの直説法現在の活用語尾、という形で作るのが基本ですが、
これは昔、have+不定詞が未来形を表していたのをルーツとする節があるそうです。
今回はそれを正しいと仮定して話を進めます。

助動詞として使う以外に、be+形容詞、have+名詞という一般的な使い方があって、どちらも、主語が属詞か目的語を所有しているような感じです。
ただし、beは主語の中に入り込んだ性質、haveは主語と一体化まではしない性質(物質)、という感じですね。

そして、beを助動詞として使う場合は、過去分詞や現在分詞として表された動詞を、主語がそれを性質として一体化していて、
haveを助動詞として使う場合は、過去分詞や不定詞として表された動詞を主語が現在の状況としては分離された性質ないし物質として所有しているということで表すことができそうです。

しかし、英語では、未来形はwill+不定詞、過去は単純活用ということでラテン系の言語とはだいぶ違います。
しかし英語の過去形はdid+不定詞でもできます。
英語の特徴として、形として時制を作るのではなく、別々の助動詞によってその意味に応じた時制を作るということにあるのかもしれません。

ところで、未来形で見たように、助動詞の活用語尾を不定詞に付けることによって、その時制を表すことが、もしもできるとすると、過去形はdidのidを付け、未来形はillを付ければ、その時制になるのかもしれない、という予測をしてみます。

言わずと、過去形はedを付ける(発音はidかit)ので、idの変化だとすればつじつまがあい、未来形は、goだったらgollとか、studyだったらstudyillとか、findだったらfindillとかで、単純未来の活用形っぽく聞こえるのではないかと思いました。

とは言っても、これは実際には存在しない文法なので、議論のしようがありませんが、もしも、ネイティブにとって、若干でも未来形に聞こえたとしたら、それは大きな収穫になると思います。

haveとbeとの話からはかなり飛びましたが、そのまま続けます。

我々が文法という体系を想定するのは、実際に使う時に便利ということもありますが、その体系が人間の自然な発想であり、その体系が人間にとってもともと身についている感覚であるという、人間の根本に迫る学問になりうるからだとも思うのです。

もしも、findillとかいう音を聞いて、それがfindの未来形であると感じるのならば、have+不定詞で未来形という仮定に一つの根拠を与えることになるし、また、潜在的な文法感覚の一部があきらかになるからです。

しかし、それが未来形と全く感じない、ナンセンスな音の響きに聞こえるなら、それはそれとして、現行の文法から、未来そうなる文法への移行、つまり人間の癖がまた否定的な角度から見ることができると思うのです。


ところで、haveとbeについては
自動詞の基本がbeで、
他動詞の基本がhaveで、
主語に対する性質が、同化するのがbe、分離するのがhaveで、その違いのみで同等なのでは無いのか、とそんな結論に自分は達していたのでした。
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